数日後、ユベルの平穏は突如として崩れ去った。
子供達が帰ったエマの家に、教会からの使者が訪れたのだ。
三人の男たちはエマの制止も聞かずに、遠慮無く家の中へと入ってきた。
「探しましたよ、カイン・ユベル。こんなに近くにいたとは盲点でした。」
「あんたら何なんだ。勝手に入って来るな。」
イサギはエマを守るように前に立った。
「…おや、誰かと思ったら『あの男』の息子か。君もカインに関わってくるとは、さすが親子だな。」
「オレはカインなんて興味ない。そいつを連れて帰るならさっさとしてくれ!」
その言葉に、男は笑い出した。
「連れて帰る?何を馬鹿な。私達は処分をしに来ただけだが。」
男はユベルに近づいた。
その視線は冷たく、ユベルはおもわず後ずさる。
「そんなに怯えなくとも手を出しはしない。」
見下しながら笑う男に、エマたちも恐怖を覚える。
「さてカイン ・ユベル、君が脱走したせいで教会は一人の使用人を失った。」
「え…?」
「君に出すはずだった飲み物を駄目にしてしまった彼女だよ。彼女は殺されたよ、君のせいで。」
ユベルは息を飲んだ。薄っすらとだが覚えている、あの時グラスを落とした人のことだ。おそらくあれに薬が入っていたのだろう。
たったあれだけの失敗で殺された。自分が逃げたから。
男を止めようとエマが動いたが、後ろに控えていた男達にイサギ共々拘束された。
「それと君が最後に処刑した男だが、…まあ覚えていないとは思うが。その男はどうして処刑されかわかるかい?」
追い打ちをかけるように男は尋ねる。
ユベルは動く事も忘れ、ただ男を見上げた。
「教会の妨げになる男だったからだ。つまり罪を犯してはいない。無罪の者を君は殺したんだよ。」
ユベルは自分の手が震えるのを止められ無かった。
「今まで君が処刑した人々の中に、そんな人達はどれ程居ただろうか。可哀想にね。」
足に力が入らなくなり、ユベルはその場に座り込んだ。
「ユベル君!」
とっさにエマが叫ぶ。
男はそちらをちらりと見やると、何かを思い出したように口を開いた。
「あの子の父親の話は聞いたかい?カインを救おうとして教会を敵に回した馬鹿な男だ。」
イサギは怒りのこもった目で男を睨みつけた。
「彼は処刑された。それも救おうとしたカインの手で。」
「おい、止めろ!」
嘘だ。そんな事エマもイサギも言ってなかった。ああ、でも、だからこそ、イサギはカインが嫌いなのか。
呆然とした頭の片隅でユベルは一人納得していた。
じゃあ僕がやってた事って。僕は…。


「君はただの人殺しだよ。」


男がとどめの言葉を発すると、ユベルの心は悲鳴をあげた。
頭を抱えて呻き声を上げる彼の目にはもう何も映ってはいない。
自身から生まれる真黒な感情に飲み込まれていくと同時に、他を拒絶するような空気の渦がユベルの体を取り巻いた。




その様子に戸惑っていると、二人の拘束は解かれた。
男はニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「やれやれ、手間をかけさせる。」
「ユベル君に何をしたの!?」
「何も。言っただろう、手出しはしないと。アレはもう限界だ。己の力で直に自滅する。」
「…処分ってそう言う事かよ。」
イサギは唸るように言った。
「君たちも巻き込まれたくなければ逃げるといい。」
そう言い残し、男達は去っていった。



「ユベル君を止めないと!」
エマは急いでユベルに駆け寄ろうとするが、渦巻く空気に阻まれる。
その空気は鋭い刃のようにエマの体を傷つけた。
痛みにおもわず足を止める。
「どうしよう、このままじゃ…!」
狼狽えるエマを、イサギはぐいっと後ろへと引いた。心を鎮めるように深く息を吸うと、意を決したようにその空気の渦の中に飛び込んだ。
「イサギ君!」
空気の刃でイサギの体には無数の切り傷ができたがそんな事を気にしてはいられない。
イサギは必死の思いでユベルの前にたどり着いた。
ユベルは頭を抱えるように耳を塞ぎ、何も映さない目で呆然としていた。
「おい、しっかりしろよ!お前、教会の、あんな奴らの思い通りになるつもりなのかよ!」
イサギはユベルの肩を掴み揺さぶった。ユベルにその声は聞こえていないようだったが、なおも話しかける。
「お前がカインだった事は確かだけど、でも、それはお前が望んでたんじゃないんだろ!?だから今苦しんでんだろ!だったら乗り越えろ!
 せっかくカインから解放されたんだ。お前楽しそうだったじゃねえか!」
ピクリとユベルが反応した気がした。
「おい!聞いてんのか!?このまま死ぬんじゃねえぞ!生きろよ、ユベル!」






ユベルの精神は、暗い暗い水の底のような場所にいた。
教会の男が言った『人殺し』という言葉が頭の中に渦巻いている。
何も覚えていないはずなのに、今まで処刑してきた人々の叫び声や呻き声が幻聴となって聞こえてきた。
今まで僕がしてきた事は…。僕は…。
もう何も考えたくなくて目を閉じる。そのまま意識が沈み込みそうになったその時、どこからか声が聞こえてきた気がした。
ふと目を開けると、暗かったはずのこの空間がわずかに明るくなっていた。上を見上げるとそこに光が見えた。
その光に導かれるようにユベルの意識は浮上した。


『生きろよ、ユベル!』


その声は確かにユベルの耳に届いた。





ユベルが気がしたついた時、目の前には荒れた部屋に傷だらけのイサギと涙を浮かべたエマがいた。
「あ、僕は…。」
ユベルが声を出すと、堪えきれなかったようにエマが強く抱きしめてきた。
自分自身も怪我をしているのか全身が痛かった。
「ユベル君良かった。良かった。」
エマは安堵の涙を流していた。その腕の中は痛みを忘れさせてくれる温かさで、ユベルも安心して体を預けた。




ユベルとイサギの二人は数日間療養し、その後ユベルは荒れた部屋を片付けるのを手伝った。
部屋の様子を見た子供達は驚き、何があったのか口々に聞いていたが、三人とも困ったように笑うだけだった。
教会はユベルが死んだものと思ったのか、もう関わってくる事は無かった。
おそらく今までの経験上、助からないと判断したのだろう。
イサギはユベルと話こそあまりしないが、以前の刺々しい態度無くなった。


体も心もすっかり癒えたある日の夕食時、ユベルは以前から考えていた思いを打ち明けた。
「僕、この街…ううん、この国を出て行こうと思うんだ。」
突然のユベルの言葉に、エマは驚きを隠せなかった。
「どうして?ずっとここにいても良いのに…。」
「ここにいても僕は何にも出来ないから。それだったら、外の世界を見てみたい。
 もしかしたらこの力を人の役に立つ事に使っている場所があるかもしれない。」
ユベルは己の手を見つめた。処刑と称して人々を殺してきた手だ
。 「この力を持って生まれてきたのには理由があるって、そう思いたいから。
だから人を殺すためじゃない使い方があるんだって事を確かめたいんだ。本の中みたいにはいかないだろうけど。」
手を握りしめ前を向くユベルは、希望に満ち溢れ輝いているように見えた。
「良いんじゃねーの。」
その顔を見たイサギはただ一言そう言った。



「それじゃあ色々準備しないとね。」
その言葉通りエマは様々な服や道具を用意してくれた。
少し重くなってしまった荷物を背負い、ユベルは出発しようと立ち上がる。
怪しい人について行っちゃダメよ。怖かったらすぐ逃げてね。
道に迷ったら人に聞くのよ。あと力を使っちゃダメ。
ユベルを心配するエマは、口うるさくなるほど言い聞かせた。
それをユベルは真剣に聞いていた。
その様子を後ろから見ていたイサギは何かに気づき、ユベルに近づいた。
「おい。」
イサギはユベルの胸倉をつかんだ。突然の乱暴な行動に驚いていると、首元から何か外される感触がした。
イサギの手を見ると、それはカインの証である首飾りだった。
「こんなの、もういらないだろ。」
違和感も感じないほど長年付け続けていたものが外されるとどこか心許ない気がしたが、同時に解放されたのだという実感が湧いてきた。
ユベルはイサギから首飾りを受け取った。
「持っていくのか?」
「うん。」
大事そうに首飾りを仕舞い込むと、二人に向かって頭を下げた。
「本当にお世話になりました。」
「気をつけてね。」
なおも心配そうな顔をするエマに、ユベルは笑顔を見せた。
「うん、ありがとう。」
それは今まで見た中で一番良い笑顔だった。



二人はユベルの姿が見えなくなるまでずっと見守っていた。
ユベルも時折振り返り、その度手を振った。短い期間だったが、そこはもうユベルの家のようだった。
その家から離れるのはユベル自身も不安だが、もう決めた事だ。
ユベルは前を向いて歩き続けた。
一歩一歩自分の足で。








おわり