
Cain
窓一つ無いその場所には重々しい空気が立ち込めている。男は薄汚れた床を見つめ、迫る刻限にただ息を潜めていた。
教会の敷地内にあるそこは神判が下される神聖な場所、というのは名ばかりの、罪人を裁く所謂処刑場であった。
役人が時を告げると、奥の扉から数人が入室してきた。その中には位の高い黒い服を着た少年の姿があった。

眼の模様の付いたミトラを目深に被ったその姿は神々しくも、禍々しくも感じられた。
少年は男の前方にある椅子に導かれ、腰を下ろす。役人が男の罪状を読み上げると、少年のミトラが恭しく外された。
あらわになった少年の眼が男を映すと、男は蛇に睨まれたカエルのように息を詰めた。無垢なはずのその眼に恐怖を感じるのは、
少年が『カイン』である事に他ならない。
「カイン・ユベル、この男に神判を。」
役人が告げると、ユベルと呼ばれた少年はまだ変声期を迎えていない声で喋り始めた。
「あなたは神を裏切る罪を犯した。よって、神に変わりカインが神罰を下す。」
その目には何の感情も浮かんでいない。ただ淡々とユベルは右手を前に差し出した。
「あなたを死刑に処す。」
そう言った途端、男の体に激痛が走った。焼け付くような痛みに男は悶え、部屋の中には呻き声が響き渡る。
そんな光景にも関わらず、部屋にいる人々は顔色一つ変える事無く無言で男を見つめていた。
男が一際大きな声を上げたその時、男の体は内側から引き裂かれたように弾け飛んだ。
男の血が床を汚す。
部屋には静寂が訪れた。
ユベルはゆっくりと右手を下ろす。その顔にはひっそりと笑みが浮かんでいた。

『カイン』
それは裁きの力をもって生まれてきた子供の事を指す。神に祝福された神子として教会に身を置き、与えられた力で神罰を下す。
そのため人々からは崇められつつも恐れられ、犯罪の抑止力とも言える存在になっていた。
カインは大きな街の教会に一人ずつ配属され、その役目を担っている。
この街のカイン、ユベルは今日の役目を終え、教会の中にある居室へ戻っていた。
カインの身の回りの物事は全て使用人が請け負っている。今日も数名の使用人達がユベルの夕食を用意していた。
カシャン、と高い音が響く。いつもならばただ静かに夕食を終えるが、今日は使用人の中に新人がいたらしく、
不慣れなその手はユベルに出すはずの飲み物を落としてしまった。
その音にユベルはピクリと反応を見せた。
カインの力を恐れた新人の使用人は慌てて謝ると、急いで変わりのものを用意した。
使用人達に緊張感が漂ったが、それ以外は何事も無くいつも通りの静かな夕食となった。
しかし、この小さな出来事がユベルの未来を変える出来事となった。
その夜、ユベルは自分の意識が浮上するのを感じ、目を覚ました。すぐには頭が働かずぼうっと天井を見つめる。
あれ、僕はどうしてたんだっけ。
とても長い長い夢を見ていた気がすると、ユベルは鈍る頭でそう思った。今までの出来事を思い出そうとしても何故か思い出せない。
頭の中に霞がかかっているような、そんな感覚だ。
この感覚を振り払おうと、ユベルは部屋を見回した。部屋の扉に目を止める。今まで自ら部屋を出た事は一度も無い。

静かにベッドを抜け出すと、緊張しつつドアノブに手を掛けた。
この部屋を出たらどうなるんだろう。
これは好奇心ゆえの行動だったのだろうか、ユベルはこの時初めて自分から行動を起こした。
部屋を出てゆっくりと進む。真夜中の教会は肌寒く、響く足音に恐怖心が湧いてくる。
しばらく歩くと、ある部屋から光が漏れているのを見つけて足を止めた。
どうやら宿直部屋らしい。中からは今日の当番なのだろう数名の男性達の話し声が聞こえてきた。
足音を立てないよう静かに扉に近づくと、話の内容が聞き取れた。
彼らは暇つぶしの為か、噂話をしているようだった。
「そう言えば知ってるか?隣街のカインが死んだらしい。」
「ああ聞いたよ。確か…アノクとかいう名前だったか?」
その名前を聞いた途端、ユベルの記憶が急激に呼び起こされた。自分が孤児院にいた頃、弟のように可愛がっていた子の名前も同じだったはずだ。
そう昔の事でも無いはずなのに、もうずっと古い出来事のように感じる。
しかし話の中の『アノク』は、僕が知っているあの子の事なのだろうか。だとしたらカインになっていたとは、死んだとはどういう事なのか。
「名前までは知らなかったな。でもまだカインになって一年程だったんだろ。」
「まったく早すぎるよな。」
「カインなんて所詮、消耗品だからな。」
男達は馬鹿にしたような笑い声をあげた。
ユベルは少し空いた扉の隙間から呆然とその様子を見ていた。心が冷えていく感覚がする。
消耗品?彼らは何を言ってるのだろう。

「またシオン孤児院から連れてくるんだろう?あそこも大変だな。カイン一人作るのに金も労力も掛かるだろうに。」
「金は国からたんまり貰っているんだろう?いい商売なんじゃないか?」
彼らの言っている事が理解できず、謂れ無い恐怖が胸に渦巻く。
ユベルはギュッと首飾りを握りしめた。それはずっと身につけている『カイン』の証である。それが今は重く、息が詰まるように感じる。
ただここに居たくないという思いで、ユベルは静かに逃げるように教会を出た。
暗い道を息を切らしながら走る。
カインになってからこんなに動いた事はおそらく初めてだ。
ユベルは必死に記憶を呼び起こす。向かうのは先程の会話に出てきたシオン孤児院。ユベルもその孤児院の出身である。
偶然にも孤児院のある街のカインになった事を、この時だけは感謝した。
道に迷いながらもようやく見覚えのある建物を見つけたのは、未明の事だった。
フラフラと門に近づくが柵状の扉は当然閉まっていた。呆然とその前に立ち尽くしていると、警備らしき男がユベルに気付き近づいてくる。
男は訝しみながらも声を掛けようとしていたが、首飾りを見た途端、驚きの表情を浮かべ急ぎ足で立ち去っていった。
暫くすると、男は一人の女性を連れて戻ってきた。
「あなた…。」
彼女は驚いた様子でユベルを見た。
ユベルにも見覚えのあるその女性は孤児院の責任者である。皆から『マザー』と呼ばれる彼女は、その名の通り子供達の母親のような存在だった。
マザーの姿に安堵し、強張っていた体から少し力が抜ける。
「あっ、あの…。」
聞きたい事がたくさんあったが何を言えばいいか分からず、ユベルは足下を見つめた。
「教会を抜けてきたの?」
頭上から思いがけず冷たい声が降ってきた。はっと彼女を見上げると、その目は氷のように冷え切っていた。
「薬が切れているようね。困るわ…。ごく稀に貴方みたいなカインが出るけど、教会の管理はどうなっているのかしら。」
腕を組み溜息を吐く。
ユベルの記憶にあるマザーは慈愛に満ちた暖かい女性だったのに、今の彼女にその様子は一ミリも無かった。
「どうして…。」
ふっ、と彼女は笑った。
「何をそんなに驚いているのかしら。そもそもどうして貴方はここへ来たの?昔みたいに優しく接してくれるとでも思ったの?」
口を開こうとするが声が出ない。ユベルは恐怖からか、一歩身を引いた。
「貴方をこの中へ入れる気はないの。はやくどこかへ消えてちょうだい。」
「え…?」
「貴方はもうカインですらない、だから要らないの。」

「あの、放っておいて良いんですか?」
踵を返し走り去っていくユベルの背を見つめる彼女に、警備の男は心配そうに問いかけた。
「ああなると後は壊れていくだけよ。ここで暴走されたら面倒でしょう。教会へは連絡しておくわ。」
冷たくそう言い放つと、彼女は足早に施設の中へと消えていった。
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